普通人デューイ

投稿者: | 2022年6月13日

…どのように経験内容をあらいおとされた論理形式といえども、それを探究する過程もまた生きているという行動の中にあるという見方…(中略)…専門数学者・専門論理学者・専門科学者・専門技術者の仕事を、その支えとしている探求において見ることがなされ、専門家の仕事を探求からきりはなされた完成品として見るのでなく、つくられつつあるものとして見て、専門家の中にある素人をほりだすことを可能にした。知識は、状況とのとりくみであり、問題状況を解決しようとして探求し、その時の条件をみたすだけの保証つき言明可能性(warranted assertibility)ある解答を得て、一応の終点に達する。[*1 p.258]

普通の生活者であること。専門家になったふりをせずに自身の中にある素人を「ほりだす」こと。プラグマティストとして生き抜くとはどういうことかという疑問に対して、それは順序が異なっており、生き抜くための各局面で人はプラグマティストである/になると考える。

無論「普通」という語は安易に用いてはいけない言葉かもしれず、デューイ自身、社会的な少数者の問題に意識的だったが、コミュニケーションに関しては楽天的な面があったという。

それでも「普通」というときの意味は、個々人の生活における状況に対して解決しようと探究し、その都度解答を得るという思考の姿勢をいう。わかってしまえばそれだけのことかともいえるが、わかったことをすぐに忘れたり、思い惑ったりするのもまた人間的なことである。

著者はデューイの生涯の特徴のひとつとして健康長寿を挙げる。長生きしてもいばらずに普通の人であり続けた。

*1 鶴見俊輔『デューイ』講談社、1984

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