メモ:バーナード・ウィリアムズ Day2

投稿者: | 2024年8月12日

2日続けてのバーナード・ウィリアムズに関するレクチャー。オンライン聴講。紙ベースのメモはなくすのでブログにまとめておく。

Day1のメモ

登壇は引き続き、2月に青土社から『バーナード・ウィリアムズの哲学――反道徳の倫理学』を刊行した渡辺一樹氏。今日の聞き手はプラグマティズム言語哲学などの研究者である朱喜哲氏。朱氏から「斬られ役」としてR.ローティが紹介され、ウィリアムズ vs. ローティという図式をベースに議論が進められた。

まず朱氏からローティ、とりわけ『偶然性・アイロニー・連帯』に関する概説から。ここで今日の論点はほぼ出てくる。ちなみに朱氏は『100分de名著 リチャード・ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』』の回で講師を務めている。

まず「偶然性」について、それは「言語の偶然性」→「自己の偶然性」→「リベラルな共同体の偶然性」という形で進展する歴史主義のもとにある。根本は言語の偶然性であり、これは後期ウィトゲンシュタインの言語の使用説に基づく意味理解に遡行できる。さらにいえば、そこからニーチェ的な系譜学の有効性が評価できる。

この「偶然性」から「アイロニー」が帰結する。アイロニーとは「信じつつ疑う」という(価値に対する)二重意識である。つまり、偶然性にさらされることで絶えざる自己改訂を求められる状態における意識である。「公/私」のボキャブラリーの区別と共存という観点からいえば、アイロニーは私的な領域に属する、私的な自己創造である。

最後に「連帯」である。これは「客観性」と対置される。「真理」「客観性」は異なる人々が社会を営む上で害になる、という挑発的な結論が導出される。

この『偶然性・アイロニー・連帯』を斬られ役として提示したうえで、対比的にB.Wの思想を「必然性・インテグリティ・真理」と要約する。必然性、すなわち、歴史主義を一定認め、系譜学的アプローチを重視しつつ、同時に自分の中での必然性を重要なモチベーションとして設定する。完全に基礎付けがない状態ではなく、しかしそのモチベーションは私的であり、個人的である。B.Wの思想の構え方は常に「実践重視」であり、「一種のカウンター型」であるという指摘があったが、まさにこういうところだろう。そしてインテグリティである。これは功利主義へのカウンターであり、アイロニーの二重意識に対して、ひとりの人間としての(内的)統一を重視する。最後に真理は、真理なるものが外的に厳然と存在するということよりむしろ、真理を追求し語ろうとする「誠実さ」に価値があるとする。ここでも完全な基礎付けが想定されているわけではなく、私的な実践の中から価値が生まれるとする。したがって、前期ロールズ的な政治的モラリズムに対する政治的リアリズムの提起であるといえる。

ここまででほぼ論点は出揃っており、あとは各論というか、ポイントごとに掘り下げる形で議論が進んだ。

ウィリアムズとローティが冒頭対比されたが、両者の共通点は反モラリズムである。モラリズムとは、ある種の道徳的原理からリベラリズムを導く態度であり、ジョン・ロールズ『正義論』が代表的な著作とされる。モラリズムはいわば当たり前のことであり、「公平な立場のもとで合理的に考えれば出てくる」ものであるとされるが、B.Wはこれを批判する。まず、i) 歴史において、リベラリズムは血と闘いの結果としておよそ偶然のように獲得されたのである。そして、ii) 政治には独自のロジックがあり、政治は道徳的論証ではない。ここからB.Wは、基礎付け主義を廃して政治的リベラリズムを定義する方向に向かう。道徳による基礎付けなしに、政治そのものの倫理を考えることでリベラリズムを説明しようとするのである。この点でB.Wはローティに接近する。

しかし、やはりB.Wとローティは対立するのである。根本的な論点として、ローティはボキャブラリー一元論であるが(はじめに言葉ありき)、B.Wはそれを受け入れない。言葉の代わりに行為を第一に据える(はじめに行為ありき)。行動からの後追いで言葉や理論が変化していくのであり、ここでいう行動とは「異議申し立て」である。つまり、政治とは? という系譜学があるとしたら、それは言語の使用への遡行ではなく行為への遡行になるのだろうか?(疑問)

「公と私の区別」についても反論する。ミランダ・フリッカーを参照しつつ、偶然性のもとでの私的な自己創造のアイロニーではなく、自信という中間的な態度を置く。ローティ的には、リベラル社会における理想的個人は、公と私を使い分け、私的に感性を磨き、公的にリベラリストであるような人物であるが、B.W的には自身の倫理的態度を公私にわたってアップデートしていくのが理想的個人である。

B.Wは「ウィトゲンシュタイン左派」である。ウィトゲンシュタイン派とは、「基礎付けとしての道徳が存在しているのではなく、ただ実践している」という立場である。ここから「ウィトゲンシュタイン右派」と呼びうる保守的相対主義が派生した。これは硬直性を持ち、”われわれ”のひとつ性を想定する立場である。ウィトゲンシュタイン左派はそれに対するカウンターである。右派的硬直性に対して左派は、「それがわれわれがやっていることに過ぎないなら、変えることができる」と考える。また、この”われわれ”はひとつではなく、異なる伝統や視点を包摂しうるものである。右派が「ひとまとまり」のリベラル政治を発見しようとするのに対して、左派は「多様性、細かい亀裂」を発見するのである。

ローティのエスノセントリズムの戦略はここに関わる。ローティは、”われわれ”を一意的に閉ざしつつ拡げるというマジョリティ側の戦略を取る。それに対して、異なる規範をウィトゲンシュタイン的に中立的に分析する視点は果たして可能なのかという疑問が生じる。つまり、超越性の問題である。

意味とは、「われわれがどんな規範に従っているか」である。したがって、この規範を明示することが求められる。明示したうえで、右派は温存し、左派は系譜学的に分析する。要はどう使うかである、というのがローティのアイロニカルな態度であり、そこから展開したのがブランダムの推論主義である。

最終的に議論の着地として、B.W的な誠実さを評価しつつも、それを個人の徳目に還元するのは求め過ぎではないかという視点も提示された。真理を価値付ける誠実さをいかに手続き的制度の中で担保するかを考えるべきではないか、という論点が出されて、私的なものの擁護、ローティ的な矛盾するボキャブラリーの使い分けによるポーズや逃げの積極的な可能性に言及された。生き方を鍛えて公的場面に向かうB.W的な個人は、ある面では「スーパーマン願望」をはらんでしまうということだろうか。(疑問) しかし、B.Wによる、そもそもひとは異なるボキャブラリーの使い分けなどできないだろうという指摘の優しさも一方である。

この辺りの話に絡めて、ローティの悪に関する議論が参照された。ローティは悪を偶然的としたが、それでは糾弾すべき残酷さの悪を信じられないので、本当の悪を扱えないのではないか、というB.Wの批判である。悪に対峙するにも適切さ、誠実さが必要である。これは「公/私」の区別を受け入れないB.Wの立場から導出される態度であるが、ローティは残酷さすら議論において戦略的に使い分けるべきだと述べた(と聞こえた。違ったらすみません)。「悪のインテグリティ」の誠実さといったようなねじれた問題が浮上する。この辺、ローティの著書を読んでみたいものである。

『世界最先端の研究が教える すごい哲学』

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