本日オンライン参加したある研究会での発表がとても示唆的だったので自分用にメモしておきます。
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ある小説家が長期間継続して書いた日記が発見されて、それをテキストデータ化してテキストマイニングしているという研究者の方の発表。その小説家が執筆したある小説についての発表で、それは日本人が他国に対して加害者性を持っているといわれている事件に材を取っている。
加害者側が被害者側を描くことには様々な困難がある。小説の場合、半ば強引に被害者側に視点を置くことで書けることもあるが、往々にして難読になる。今回紹介された作品においては多視点的なナラティブがとられているが、特徴的なのが筆者が被害者側に非常に共感的に執筆することができているという点である。
発表によると、筆者は終戦を満州で迎え、その後さまざまな勢力によって満州が占領される中、自身が何らかの形で被害者になるかもしれないという状況に強い不安を抱いた。
このように「他国の軍事勢力によって生が脅かされる」という経験において、筆者は事件の被害者の心理・状況と自身の間に構造上の同型性を直感し、そのある意味で安易な直感によって被害者側に共感を示すことができた。これが語りを特徴づけている。
しかし、そのような被害者側への共感によってむしろ筆者が否応なく帯びているはずの加害者性が隠蔽されていないかと指摘される。侵略者としての自己を忘却し、その忘却と表裏の関係において意識的に被害者に共感を示している。このある種の素朴さ、その危うさ。
件の小説は一時的に話題にはなったもののその後長らく忘却された。それはなぜなのか。
日記の読み解きという研究から言えることは、たとえ小説に描かれていたとしてもそれは生活者にとっての唯一のイデオロギーではないし、数十年の時間を経ながらむしろ線的に、生活や人生の局面ごとに変化していくものである。そのような視点に立つ場合、日記という史料はとても貴重なものとなる。