[読書]『麵麭の略取』

投稿者: | 2020年7月15日

クロポトキン著、幸徳秋水訳『麵麭の略取』(岩波書店、1960)を読んだ。非常に切実なものを読んだという印象である。ざっくり言うと明治~大正にかけての日本の社会主義運動は議会主義と直接行動の二派にわかれ、幸徳秋水は明治38年の渡米後、無政府主義者として後者の論陣を張る。革命派とも呼ばれた後者は決して一枚岩ではなく、無政府主義者の幸徳秋水、バクーニンの思想に近い大杉栄などが議論を交わしながら行動を共にしていた。本書はそのような中で幸徳秋水が訳出したもので、大正期のアナーキズムの経典となった。

1960年に岩波文庫に入ったものが文面はそのままで2019年に復刊されたものを読んだ。新訳ではなく、幸徳秋水の訳文のままである。朗々とした声色を湛えた格調高い文体であり、まずそこに感銘を受ける。幸徳秋水が世間の波や官憲の眼を感じながら病床で訳した。その意味でもこれは切実な著書である。

内容についてはとかく言えるほど勉強が追い付いていないが、本書が提示する無政府主義、すなわち「国家を本として下個人に及ぶのではなくて、自由なる個人を起点として、自由なる社会に達せん」[p.230]ということを様々に論じる。虚心に読めば述べられている様々な当時の現状認識とそれに対していかにあるべきかの議論はむしろきわめてヒューマニスト的である。また、生産という観点からの議論はおそらく当時の経済学の主流を大胆に転換するものであったのではないか。たとえばアダム・スミスが提唱した分業の効率性に対して、クロポトキンはむしろ労働の全体性の回復を唱える。そしてその主張には経済的な合理性があるのだという。また、賃労働がいかにあるべき状態から離れたものかということも筆を尽くして主張する。科学的な知見を取り入れて賃金のためでなく労働することで、労働の負担は時間的にも感情的にもより少ないものになる。きわめて人道的見地からの発想であり、ある意味では昨今の状況においても敷衍できるものであるだろう。

一身上の利益のために労働するのではないと考えることで自ずと相互扶助の考え方に至る。これはまた別の著書を読んでみたいところである。

無論本書一冊を読んでにわかにアナーキズムに目覚めるというわけではないが、まず「政府がない社会」というこの発想の転換である。そして繰り返すが議論はきわめてヒューマニスト的である。いかに自分が無自覚のうちに様々な物事を自明視してそれに縛られているかということを発見できる。ちなみにタイトルの「麵麭」は「パン bread」。

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