『数理と哲学』

投稿者: | 2021年4月24日

4月17日、中村大介『数理と哲学』合評会@Zoomを聴講。著者中村氏の発表に対して、稲岡大志氏、上野隆弘氏がコメントする。司会は近藤和敬氏。
『数理と哲学 – カヴァイエスとエピステモロジーの系譜 -』青土社, 2021 http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3524

「フーコーの分割線」という話題が出た。フーコーが現象学・解釈学とエピステモロジーの間に分割線を引いた。フランス哲学は歴史上で「経験・意味・主観性の哲学」の系譜と「知・合理性・概念の哲学」の系列に分割されるという指摘[*1] 。仏語出典[*2] まで参照できていないので孫引き恐縮。不勉強なのでこの論点だけでも考えたいことがいろいろと出てくる。

敷衍して、では数学的経験とはいったい何なのかということが一つ論点となる。これは著書を読み込むべきところ。ちなみに発表者の一人が「合評会に来るからには当然著書は読んでいるべき」と一言皮肉を言った。内心謝る。

上野氏のコメントで図式的に示されたところがわかりやすかったが、感性と悟性の対に対してそれぞれ幾何学・数論、代数学・解析学が対応する四角形が数学的経験である。経験を知覚して意味に至る直観の在り方として、幾何学的図形による同時的直観と、演繹による推移的直観の二様の直観があり、この二様の直観(記号と自然言語)を両方使うのが数学である。

登壇者各自がこの分野で充実した業績を上げている方々であり、オーディエンスにも大家が何人もおられたようで、ちょっとしたコメントや質疑応答からもいろいろと勉強になる。また、この文脈でドゥルーズ『シネマ』に言及があったのが興味深かった。

幾何学的理解と演繹的理解において「リアリティをもって」抽象概念を扱う。「理解するとは振る舞いを計画すること」である。リアリティという語が唐突なようだが、これは場としての主体なるもの、その身体性と引き合っているのだろう。主体なるものとは何か。主観性、意志、意識…。などなど、話題多数。あるいはデリダのフッサール『論理学研究』批判、準-超越性、脱構築=観念の生成、をどう考えるか。数理哲学はなぜフランス哲学の主流にならなかったのか。

学習・研究のモチベーションを大いに刺激された。ありがたい。

*1 米虫正巳. (2002). 哲学の分割線?: エピステモロジーとスピリチュアリスム. 人文論究, 52(3), 49-64.
*2 Michel Foucault. (1994). Dits et écrits. Gallimard. tome III, p.430, tome IV, p.764.

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