シモーヌ・ヴェイユがわからない – 2

投稿者: | 2021年4月3日

まず今村(2000)[*1]から。冒頭

人が師友、事象との出会いを通して心底心貫かれる想いをするとき、存在、時間を超えた何らか永遠との接触を感じるであろう。(「はじめに」)

「心貫かれる想い」「存在、時間を超えた何らかの永遠との接触」。このあたりで既にわからなさがある。前者はメタフォリカルに死を思わせるほどの痛烈な情動であろうか。後述のイエス・キリストの磔刑のイメージが重ねられているのかもしれない。後者は何らかの超越性の経験であるだろう。これらは後で論点となってくる。続けると

そうしたとき、たとえそれが否定的契機を経てであれ、いやむしろ否定的契機を経てこそ、私たちは何らか己を超えた不思議な可能性に自ずと披かれているのを感じるのではなかろうか。(「はじめに」)

「否定的契機」という文言に傍点が付してある。後々この否定性についての考察が重要であることがわかってくる。

古来、先人たちは、一体どれだけの孤独や断絶の境に、自己が全き無に限りなく近くなることを通して、己をそして他者を見出していったのであろうか。(「はじめに」)

「古来、先人たちは」:ヴェイユがプラトンを重要な参照先としていたことを想起する。「孤独や断絶の境」:これは前述の「否定的契機」のパラフレーズか。「自己が全き無に限りなく近くなること」:後述、私たちは「不幸」の状態において一人称で語ることを放棄し、神の愛の働く場として生きる。その時、神は不在という仕方であらわれ、その超越的な存在が確かにあるということが把握されうる。これは重要な論点である。

ヴェイユの言葉は「既存の把握を透明化し、私たちの存在を根底から揺さぶる」。つまり「近現代の認識論の枠組み」を脱し、言葉・ロゴス・生に「心披いてゆく」ことである根底的なものへと達する。

ヴェイユは批判的姿勢は保ちつつもその思想において哲学と宗教が「完全に」重なるという点が、彼女の依拠するカントとの差異である。

このようにして読むと、本論文の「はじめに」においてかなりの議論が先取されていることがわかる。『シモーヌ・ヴェイユ アンソロジー』を読んでいると、ヴェイユの場合も論考冒頭にまず大胆ともいえる断言によって結論めいたものが書きつけられ、その後はそこから湧出するように言葉を連ねるということがある。これも独自性であるだろう。


*1 今村純子. (2000). シモーヌ・ヴェイユにおける美と神秘 感性による必然性への同意. 宗教哲学研究, 17, 58-69.

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です