第2回九鬼周造記念講演聴講メモ

投稿者: | 2021年3月12日

3月4日、オンラインで九鬼周造についての講演を聞いた。最近オンラインで講演などを聴く機会があるが、わりと聴きっぱなしになっていることが多いので、発展的研究のためにもメモを残していこうと思う。

第2回九鬼周造記念講演会「偶然に響く言葉の行方」
https://www.konan-u.ac.jp/kihs/news/archives/3297

講演者は串田純一氏で、串田氏の発表に対してのレスポンスという形で浦井聡氏がコメントする。講演会の内容は後日大学紀要に掲載されるとのことである。したがって公開講演会ではあったが現段階では未公表部分もあると考えて、あまり詳細に書き写し過ぎないように心がける。

まず串田氏は、自身の主たる専門であるハイデガーから九鬼周造にアプローチする手がかりとして、『言葉についての対話』* という書籍に言及する。このテクストは〈問う人〉と〈日本人〉の対話形式の哲学書であり、〈日本人〉は九鬼周造との交流を踏まえた人物造形となっている。このテクストはそもそもハイデガーによってドイツ語で書かれたものであり、それを日本語に翻訳した言葉が〈日本人〉に割り当てられている。したがって〈日本人〉を九鬼と同定してその言葉をたどることは単純にはできない。

*『言葉についての対話』ハイデガー、高田珠樹訳、平凡社、2003

それを踏まえて展開される議論のひとつのポイントとなるのは、浦井氏の簡潔な要約によれば〈概念-物語-実存〉の図式である。これが〈普遍-特殊-個別〉の図式とどのように重なり合うのか、という点は〈物語〉を考えるうえで重要である。注目すべきは〈物語〉を考える際に串田氏がいわゆるうたものがたり、和歌を含む物語に着目した点である。和歌はそれが持つ修辞的な特性も含めて、ひとつの表現の中に多義性が織り込まれる。講演後の質疑の際の串田氏の表現によれば、機知=言語表現が偶然性に必然性をもたらす。つまり、言語は一般的である。したがって言語が描写しうる個々の出来事は〈複数ある〉。その偶然的なもののひとつの表現、固有の表現が〈うた〉である。〈うた〉はひとつの表現であると同時に、例えば掛詞によって複数性に開かれる。あるいは韻。このようにして偶然性を必然性として引き受けるのが〈みやび〉である、と。しかし、九鬼は万葉重視/古今軽視ではなかったか、〈みやび〉に対して距離を取るのは九鬼の資質だろうか、というコメントもあった。

「偶然性」とは「またとない瞬間において」であり、一回性ないし単独性の尊重であり、それは本来的実存と共通する。そして「詩は自由芸術の自由性にまで高めると共に、人間存在の実存性を言語に付与し、邂逅の瞬間において隣接肢の多義性に一義性的決定を齎す」。そのような概念と実存の中間的なものでありうるのが〈歌〉であり〈物語的なもの〉である、とする。ハイデガーは『存在と時間』で「いかなるお話〔Geshichte〕も語ら」ずに単独的な実存の分析と存在一般の意味の理解を試みたが、未完に終わった。両者の間には深淵がある、それを渡る際には〈物語〉のようなものが生じざるを得ないのではないか、という疑問を呈する。この中間的なものをめぐっては、例えば九鬼と後期ウィトゲンシュタインの比較も可能ではないか。また、歴史性についてどう考えるか。様々な方向に可能性を示す講演だった。

また、浦井氏はコメントで、個と類の中間的領域が存在するにはまず個と類の成立が先行せねばならないが、しかし個と類の在り方は状況に応じて大きく変化するものであることに言及する。

なお、昨今こういった場も含めて現在の社会を語る際のモデルがSNS的(Twitter的)である場合が多いように思うが、これはどうなのだろうかと個人的には懸念がある。

講演会に触発されて未読の九鬼の書籍に改めて取り組んでいる。『「いき」の構造』は昔誰かが、あんな図式は単に恣意的なだけなどとクサしているのを読んで距離を置いていたのだが、今読むととても面白い。

けだし、媚態とは、その完全なる形においては、異性間の二元的、動的可能性が可能性のままに絶対化されたものでなければならない。〔『「いき」の構造』九鬼周造、岩波文庫、1930/1979〕

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