本質論?

投稿者: | 2020年12月3日

メモだけ。

『詩 黒人 ジャズ』木島始、晶文社、1965
SNSで書影を見て古書を購入した。帯文は以下。

20世紀の黒いオルフェたちの書くもの歌うものすべての「美しい充溢」を現前させるブラック・アンソロジー

言及される対象は小説、詩、ジャズ、ブルースなど多岐にわたる。しかし、そのような芸術、作品「について」論じているというよりは、それらを媒介としてある固有の対象に向けて何度もアプローチしているように読める。

ではその固有の対象とは何なのか。あるいは「黒人性」だろうか。しかし、そうではないだろう。黒人的なものをさらに媒介としつつ、到達しようとしている、言及しようとしている対象がある。

まさにこの「言及する」という不断の試みについての書物であり、あるいは言語表現とはこの「言及する」という行為と何が異なるというのか。

あるいはあらゆる媒介から遡行したその先には何か「本質」があるといえるだろうか。それはもう信の問題である。しかし、信ということの美質が表現される場面に立ち会い、その表現を享受する体験というのは、かけがえのないものであるだろう。

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