[雑記] Twitterの毒

投稿者: | 2020年8月14日

Twitterの毒はその演劇性にあり、それは同時に魅力でもあり、そして時にそれゆえに意識の奥から言葉が引き出されてくる。そこでの試金石は自意識である。現代的ナルシシズムを煮詰めて腐らせたような空間である。そして時にそれゆえに人はそこに魅かれていく。

2Pacの生前のラストアルバムは”All Eyez On Me”(1996)である。その前は”Me Against The World”(1995)だった。前者は「あらゆる瞳が私を見つめている」、後者は「俺対世界」というかんじか。現代的である。我々は今やスターである。皆が皆スターである。客などいなくとも舞台はある。聞こえる…聞こえるだろう…あの歓声が、拍手が、ヤジが、床を踏みならす音が…! そしてスポットライトを浴びた酔漢のように心持鼻面を挙げ、おもむろに「ツイート」する。どうだ、観客たちの喝采が聞こえるだろう…?

実存主義的に言えば演劇性・演劇的状況とは観客と演者の二者の視線の交錯である。しかし事態はさほど単純ではない。見るものと見られるものの区分などさほど確たるものではないのだということは、ハプニングなどの実験を引くまでもなく、自ずと演劇がそれに対して向き合ってきた問題である。また、舞台の上と一口に言ってもそこにはきわめて多様な視点が関与している。

Twitterが演劇的であるというときにいったい何を言わんとしているのかというと、そこで不可視の・無言の・群衆的であり匿名的である対自を前にして肥大する即自の自意識のありようを言っている。まさに”Me Against The World”であり”All Eyez On Me”である。皆が皆ここではスターである。たとえリツイートされなくとも、コメントがつかなくとも、likeがつかなくとも、我々はスターである。なぜなら、我々は舞台の上にいるのだから。あらゆる合意や契約やトレーニングや事前準備に先立って我々は舞台にあげられてしまった。眩いばかりのスポットライトを浴び、静まり返った暗い観客席に向かって、さああなたがパフォーマンスする番です、とそっと背中を押される。さて、これはいったい何なんだろうか。

「「反演劇性」とは、このテキスト(筆者注:マイケル・フリード「芸術と客体性」1967)において、「演劇性」の打破を目的とするモダニズム芸術の本質的な価値として登場するものである。」[反演劇性|現代美術用語辞典ver2.0]

モダニズム芸術の「反演劇性」とはまさに上述のような自意識の絡み合いとしての演劇性から脱することであるだろう。そしてその方途として、ひとつにはフォルマリズムが取られる。Twitterの時代は同時に過剰なまでのリアリズムの氾濫する時代でもある。しかし、自意識のクモの巣から脱出するためにフォルマリズムが役に立つこともあるのではないか、と考えている。

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