西洋政治思想史講義 精神史的考察
小野紀明, 岩波書店, 2015
https://www.iwanami.co.jp/book/b261087.html
ウェブで書評を読み興味がわいたので図書館で借りた。500頁超の大著。そもそもの議論の前提というか設定自体ににわかに躓いてしまい、これはいったい何を読んでいるのかというためらいが生じる。「精神史」Geistesgeschichteの立場から歴史を講ずるとしているが、そもそも精神史とは何なのか、果たして妥当なアプローチなのか、まずそこを納得しておかなければならない。
著者による「序章」から引くと、精神史は「19世紀末からドイツのディルタイを中心に開発されてきた思想史の方法論」[p.4]を指す。「精神史は明確な人間的基礎をもつ。即ち、人間を理性的存在と見なし、歴史を理性が十全に開花していくプロセスとして整序する啓蒙主義的な理解ではなく、非合理的存在としての人間の「生Leben」が生成、発展する運動として歴史を捉えようとする。こうした歴史観は、ロマン主義や歴史主義といった、とりわけドイツで盛んであった思想運動から始まり、ヘーゲルによって最初の完成を見るのであるが、彼には歴史を目的成就のプロセスと考える目的論の色彩が濃厚である。ロマン主義の影響下に出発しながらも、それを概念の万力の下に体系化したヘーゲルのこの汎論理主義Panlogismusに強く反発したのが、ディルタイであった。」[pp.4-5]
序章は第1節以降の論への前哨であるらしく、この段階で抽象的に述べられる内容が後々具体的に講ぜられていくという段取りのようだ。さらに引くと、「ディルタイは、生を主観―客観の分離以前の意識と世界との相互交流と考える。つまり、そこではまだ自己意識と世界との分離が生じてはいない。私の生の基底には私を含む共同体的生が横たわっているのである。この生は、まず時代を覆う不定形な「雰囲気Atmosphäre」「気分Stimmung」として現象化するのであるが、この共同体的情緒は具体的対象に向けられた主観的感情(例えば、母の死がもたらす悲しみ)ではなく、多くの共同体構成員を覆う漠然とした時代の雰囲気(例えば、ファシズム前夜のヨーロッパを覆う閉塞感)である。この雰囲気が結晶化、概念化して、その時代の文化的所産である種々の「表現Ausdruck」(これも精神史のテクニカル・タームである)を生み出す。「表現」の全体が「世界観Weltanschauung」なのであるが、それは自他未分離の層に澱む気分、雰囲気から始まって、順次、主観化と概念化が進んでいく次のような構造をしている。」[pp.5-6]
したがって著者は様々な「表現」を媒介としておのおのの時代の「雰囲気」を「理解Verstehen」しようとする。それが精神史的アプローチである。
第1節で古代ギリシア思想史から自己と他者が区切られていく様子が記述されるが、同時に「理解」されるべき「他者」とはある意味で非合理な存在であり、そこで想定されているのは自他未分離の層である。つまり、西洋政治思想史の根本的なテーマを古代ギリシア思想以前に求めるという点が著者の矛盾のようにも聞こえる方法論であり、そのための精神史であるといえる。さらにこのような議論がどうして「政治思想史」に連絡しうるかというと「政治とは自他の関係の秩序化そのものであ」る[p.7]という著者の定義による。つまり精神史的な他者理解の試み自体が政治への布石である。そしてそのことを踏まえたうえで、そのような秩序化された自他の関係への論理的な理解の背後の「パトスに官能的に同調tuningする努力」を読者に求める。この一見相対する矛盾、アポリアにとどまり、対話を続けるという姿勢が本書の肝要であるだろう。政治という自他の関係の秩序化そのものの変遷を精神史から読み取る。そしてそれらの「表現」の背後にあるパトスと相対する。アポリアの只中での実践を支えるのは読者の、学び手の側のパトスであるだろう。