[読書]『弁証法的想像力』- 2

投稿者: | 2020年8月3日

前半を読んだメモポストの続き。ひとまず通読したのでメモ。メモなので雑です。

対立的な二項による二分法を想定したうえで一方を他方に還元するのではなく、「中立の領域」[p.288]を発見すること、自律的で独自な領域を確認することが「批判的理論」のアプローチであると読める。当初マルクス主義から始まった社会研究所も次第にマルクスのモデルへの修正を加えていく。追究するのは対立ではなく調和である。

上部構造と下部構造との間の非還元主義的な関係を考察するにあたって、社会研究所は精神分析的な心理学を社会心理に対して適用した。つまり調和を心理的レベルにおいて見いだす試みであり、そのために実証的な調査研究をおこなった。しかし、ここでいう心理とはいったい何だろうか。最終章で議論があるが、やや錯綜していて読みにくい。

「いまや矛盾の存在そのもの、いや少なくとも矛盾の存在の意識は、資本主義が社会主義にとって代わられてはいなかったが危機に瀕していた。のちにマルクーゼが『一次元的』社会として有名にした状況においては、否定という回復力はほとんど全く欠如していた。その否定の代りに残されていたものは、積極的自由の無残なパロディであった。人間を解放しようとした啓蒙主義は、皮肉なことに、以前よりもはるかに効果的な手段で人間を奴隷化するのに役立っていた。明確な行動の指針がなくなって、文化産業のひとを麻痺させる力から逃れる力をなおもっている者に開かれている唯一の道は、否定のかすかな残痕を保存し、さらにそれを培養助長することであった。」[p.399]

たいへんペシミスティックな調子だが、決して完全に実現されることのないユートピアへの希望が歴史が神話に戻るのを防げるとする。人間と自然といった大きな概念を駆使したある種の歴史哲学であるが、この辺は勉強不足で一読よくわからない部分もある。ただ、如上二項対立的な思考において必ず還元主義を避け、調和を追及するという姿勢であり、したがって例えば自然と啓蒙のどちらとも自らを区別しようとする。「自然との完全な調和は、無媒介状態への退行」[p.388]である。主観と客観の間に還元的関係を置かない。常に非同一性を強調する。

「かれらは、支配に敵対するものは、自然そのものというより自然の記憶であることを明らかにした」[p.388]。「対象と知覚の一致においてではなく、両者の反省的対立のうちにこそ、調和のユートピアは保持されてある」[p.388]。記憶という概念を持ち出せば当然忘却ということが考えられる。そこにはフロイト的要素が介在する。「すべての物象化は、忘却である」[p.388]。

あるいはミメーシス、模倣の問題をどうとらえるか。二分法における宙づりとはアンビヴァレンスであり、したがってやはりそこには心理的・精神分析的機制が介在しうるのではないか。そこから派生する社会の「症候群」を調査研究する方途が一方にあるとともに、模倣やアイロニーといった対立や矛盾とは異なる関係性にも言及される。

ワルター・ベンヤミンへの言及。「過去を統合的にとらえ返すうちに解放された未来を求めるというのが、ワルター・ベンヤミンの作品の主要テーマの一つであった。かれの経験の理論と小児期の出来事の記録への関心とは、このような問題関心(注:自然は人間にとって単に外的ではなく内的現実の側面を持つ。自然支配によって生ずる苦痛の抑圧が進歩の最大のコストである)の反映であった。ベンヤミンについてはしばしば言及されるものの社会研究所との関係は複雑である。

参考:
Critical Theory (Stanford Encyclopedia of Philosophy)


マーティン・ジェイ『弁証法的想像力』
荒川幾男 訳、みすず書房、1973→1975

 

 

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