「言説の線的性格」についてのノート

投稿者: | 2018年10月15日

前の投稿で、「文章は基本的に線的であり、それはすでに次元を下げられた情報である」と何気なく書いたが、「言説の線的性格」については議論がある。最近読んでいる本での議論を踏まえて多少補足する。

「言語学と人間の科学」において、二コラ・ルウエは次のように述べる。

「言説(ディスクール)の線的な性格は、物事を非常に単純化する。すなわち言語学的対象は時間のなかでは、ただ一つの位相に還元されるか、空間のなかでもやはり一つの位相に還元されるものなのである。」(「言語学と人間の科学」[*1])

そう断ったうえで、「表意体(シニフィアン)の線的な性格を宣言したのはソシュールである」と述べ、その一見自明な概念がヤコブソンの激しい批判の対象になったことを補足する。

「すなわち、ヤコブソンは、区分されるべき諸々の特徴という定理を確立し、時間の軸のうえでの最も小さい音韻論的単位としての音素は、同時間継起性の軸のうえで「音楽における和音」のように、競合する諸要素に分解されるものであるということを示したのである。音楽とのこの比較の結果、一つの点がより正確化されることになったのである。そして、いかなる意味で、表意体(シニフィアン)の線的性格という概念が、完全に有効でありうるかということを示した。」(同上)

音楽では支配的傾向であるこの同時間継起性は言語においては多義性・曖昧さとして前景化しにくい要素であり、それゆえに言語活動は構造論的分析に「都合のよい大地を提供」している、と述べる。つまり、言語活動が性格上少数の位相によって平明に表現できるがゆえに、それは説明の様式として適している。しかるに「神話や音楽」は「多種多様な位相を必要とする」ためにその様式は「直観ではとらえにくい」。

したがって、「言説の線的性格」の非自明性と、それが成立する条件、その仮定によって生じる影響等について、より丁寧な考察が求められるのだろう。例えばある種の詩的言語や音楽における言語表現を想起すれば、そのような問いの必要性もより実感できる。


[*1] 「言語学と人間の科学 –レヴィ=ストロース入門」ニコラ・ルウエ(『構造主義とは何か そのイデオロギーと方法』J.=Mドムナック編, 伊東守男・谷亀利一 訳, 平凡社, 1963/1967 → 1968/2004 所収)

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