ブルバキに関する書籍二冊。
- 『ブルバキとグロタンディーク』アミール・D・アクゼル著、水谷淳 訳、日経BP社、2006→2007
- 『ブルバキ 数学者達の秘密結社』モーリス・マシャル著、高橋礼司 訳、シュプリンガー・フェアラーク東京、2002→2002
前者はいわゆる科学読み物である。ブルバキの中でもグロタンディーク(本書の表記)とヴェイユとを対比して、ヴェイユを下げてグロタンディークを持ち上げている。やたらとエピソードがドラマチックに描写されたり(実際、グロタンディークにせよヴェイユにせよ、劇的な人生ではあるのだろうけれども)、あまりにも憶測が多かったりと、決して学術書の体裁ではない。
ブルバキへの言及にしても、数学的な詳細にはあまり立ち入らずに、「構造」という一点を特記しているのだが、それも数学における構造主義が精緻に語られるというよりは、レヴィ=ストロースとヴェイユの邂逅に端を発して様々な文化領域に構造主義が派生したことに触れ、ブルバキがいかに強い影響力を持ったかの傍証としている。そして、その絶頂期と対比的に衰退期を描くことによって、文章構成にダイナミズムを持たせている。
文化人類学、文学、心理学、経済学と多岐にわたる話題に触れているものの、分量的にも博覧強記とはいかず、あくまでもそういう話題に触れているという程度である。実際のところ、ブルバキをこのように「構造主義」の一点に切り詰めて評価するのが正しいとはあまり思えない。
ブルバキの運動を同時代の文化的潮流の中に位置づけている。例えばサルトルが代表する実存主義に対して構造主義を打ち立てたことや、第二次世界大戦後にフランスの数学を復興したナショナリズムと関連する側面など、指摘としては正しいのだろうが、もう少し丁寧に検証してもよいのではないかと思わせられる。
それに対して後者はブルバキのメンバーに個々にフォーカスし、最小限の数学的内容のフォローも交えながら、あくまでもブルバキについて語り、そのテキストについて語る。修辞やドラマツルギーではなく、伝記的事実にそってブルバキの数学を検証する。
前者において、ブルバキの衰退の一因はグロタンディェク(本書での表記)による圏論を受け入れずに集合論による記述から脱しなかったことだという指摘がある。これはわりとよく耳にする話である。後者でもこの点については言及があるが、前者が示唆するように〈先鋭化したグロタンディェクを固陋なブルバキが受け入れなかった〉のではなく、その他のブルバキのメンバーにとっても葛藤のある判断であったことが手短に記されている。
後者の基本的なブルバキ評価は(ブルバキが自負するとおり)「その時代の数学を整理したことであって何か新しいものをつくりだしたことではない」[p.136]というものである。このような冷静な視点からブルバキの数学を整理したのが本書である。ふんだんに散りばめられたブルバキメンバーのポートレイトも含めて対象への誠意が感じられ、〈私が思うブルバキ〉をドラマチックに描くのではない面白さがある。
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ブルバキというととかく神秘化されがちで、私も含めてにわかな素人が迂闊に手を出して半端な理解をしがちである。せめて評伝くらいは正確であってほしいものだ。