評伝

投稿者: | 2023年2月22日

渡辺京二が昨年12月25日に亡くなった。享年92。

日記なので個人的なことを書く。大学学部生の頃に『逝きし世の面影』の平凡社ライブラリー版が出て(2005年)、これを読むべきか、あるいは読むべきでないかということがネット等で多少話題になった。当時のネット文壇的な空間でプレゼンスがあった比較文学者のKがはっきりと批判していたことに影響され、当時は読まなかった。今回の訃報を受けて改めて購入した。

『逝きし世の面影』は今後読むとして、先に積んであった同著者の『北一輝』(ちくま学芸文庫、1978/1985/2005)を読んだ。いわゆる評伝である。北一輝については本書刊行前の昭和50年代を含めて何度かブームがあり、その都度、極端な毀誉褒貶を伴う北像が流布してきた。そういったある種の極端な人格としての北一輝像を、伝記的事実の考証とテキストの読解を通じて、いわば凡庸な姿へと落とし込む。それは断定的な批判ではないし、称賛すべきところは誇張気味なくらいに称賛する。例えば北の最初の著作である『国体論及び純正社会主義』については非常に高く評価し、先行研究[*1] や巷間の批判的言及における誤解をきっぱり退ける。そして、同時に、この著作が持つ限界についても言及する。

いたずらな伝説化や神話化から北の著作を取り返しつつ、改めてその限界を冷静に書き記す。その結果現れた、無用な敵意や極端な毀誉褒貶から保護された北の像について、筆者は「北に関して私は言うべきことはみな言っ」た、そしてそれは自分にとっては「終わった仕事」だと明言している。[p.375-376]

なぜ渡辺の筆致が執拗に北を中庸へと引き戻しているように見えるのか。臼井隆一郎が解説で書いているのは、「その気宇壮大に天下国家を論じる様は、つい渡辺京二のいう「とどの詰まりのつまらなさ」を連想」[p.388] する、ということである。屹立するカリスマ性を持つ天才が一気呵成に天下国家を論じ、世を変えようとする、そのことの「つまらなさ」である。そしてそのような北像とは裏腹に、渡辺が主に『国体論及び純正社会主義』の読解を通じて読み取る「日本的コミューンの理想型」はむしろ「小さな死を選んだ死者の一人一人が「死民」として参政権を有する多数決原理のコミューン」である。[p.388] このねじれに対して、渡辺は自身のバランス感覚を保ちながら、絶えず極端なものを削り、捨て置かれているものを取り直し、ひとつの評伝をまとめ上げている。


*1 例えば本書が仮想敵として批判的に参照する松本清張『北一輝論』(1976)、松本健一『北一輝』(1972)などは文庫化されて現在でもそれなりに読みつがれている。

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