答えを既に知っている問いについてしか考えることができない者はわりといる。知らないことについて考えることに耐えられない。
「知っている」「知らない」というのは彼らにとってはクイズのようなもので、問いと答えが一対一対応で暗記カードの表裏のようになっていないといけない。そうでなければ耐えられない。
昔はそういうタイプと出会うとコーチしたくなったりしたものだが、最近はやめた。つまらない、と思うようになったし、そういうことをしたがる自分が尊大であるように思えて白けるようになった。
しかし、この誰も答えを現時点では知らない問いを立て続けて、それについて考え続けるというスキルは、案外誰でもが持っているものではないらしい、ということもわかってくる。
問いと答えがリジッドに一対一対応していないと気がすまない性質の者からすれば、答えのわからない問いに取り組む、あるいは答えがわからないまま対話を進める、というようなあり様自体が非常に無責任でいい加減なものに見える。
無論、わからないものを闇雲に進めれば何でもいいわけではない。スキルフルなファシリテーターはわからないなりに脱線や議論の混乱を耳ざとく見つけて予め回避するように誘導したり、曖昧な議論をロジカルに整理するテクニックを持っていたりする。
わからないなりに、致命的に間違うことはないという最低限の安全管理をしている。だから「いい加減」になれるのである。
この安全管理については、他のメンバーにあまり悟られてはならない。あいつは議論を誘導しようとしている、と勘ぐられるのはよくない。隠然とおこなわなければならない。
したがって、ファシリテーターの仕事を評価するのは難しい。全体を観察してしっかりそのスキルを理解できる上位者がいればよいが、そんな目を持った者はあまりいない。
結果、派手なグラフィックを書いたとか、バカなジョークで場を盛り上げたとか、そういう些末なことばかりが目立つが、本質はもっと隠然とした細部にある。
複数の答えがありうるとか、何が本質的に正しいかわからないとか、そもそも答えがあるかどうかわからないとか、そういう状況自体が耐えられない者はわりと多いのではないか。しかし未知の答えは、そういう根本的な曖昧さを通過した先にあるかもしれない。そこにとどまり考え続けることができないで、既に知っているクイズ的知識でごまかしたり、そんな問いに価値はないと怒り始めたり、あるいはお前はバカだ無責任だと他責にして自尊心を保とうとする。
本当につまらない人間が多い世の中である。