豊住芳三郎(Ds)、森 順治(As)、照内央晴(P)、富松慎吾(和太鼓)。
豊住芳三郎率いる『Sabu UNIT』メンバーを一新し、ベテラン森 順治(as)、多ジャンルとの交流を持つ照内央晴(p)、京都より富松慎吾(直径1.5mの大和太鼓)のインプロカルテットで再出発![PIT INNのページ]
豊住芳三郎について、Wikipediaのページがわりとメンテナンスされているようなのでリンクしておく。
いわゆるフリー・インプロヴィゼーションだが、問題は和太鼓[*] をどう評価するかだろう。森のバス・クラリネットに対してはじめ豊住はマレットで静かに応じて始めた。そこに和太鼓とピアノが順次加わった。この和太鼓の音量と音質が他を圧する存在感で、その結果どうなるかというと、各メンバーが全力で音を出さないと自分の音が聞こえないので、いわゆる「パワー・ゲーム」に陥ってしまう面があったように思う。
もっと細かいテクスチャ―やニュアンスで合奏できたところで、和太鼓が鳴り響くことによって各自に「力強い」演奏が要求される。そして強く叩けば・吹けば・弾けば聴こえるかというと、そうでもないのがまた難しいところで、和太鼓の音域に対して例えばシンバルであるとか、ピアノの高音域を叩きつけるであるとか、あるいは管であれば倍音成分の多い音であるとか、そういう「ヌケの良い」音でなければ、和太鼓の音と同化してもこもこした音の塊に飲まれてしまう。
このような「パワー・ゲーム」的状況が意図したものなのかどうか。あるいはもっと広い空間や、屋外のステージでは、また聴こえ方が違うのかもしれない。
しかし、和太鼓奏者は当然、自分の音が大きいということを知っている。それゆえにミュートしたり太鼓の枠の方を叩いたり、あるいは手数を制限したりと、音量を抑える試みもいろいろと取り入れているのだが、しかしそれだけでは和太鼓がバンドに入った意味がないのだろうし、わざわざ京都から上京しての演奏で「叩かない」という選択はないだろう。叩くべきところでは打面の真ん中をしっかり叩く。
逆に言うと、自分の音が大きいということを自覚している和太鼓奏者が場でどういう音を発するか/発しないかが、その時の場の動きのバロメーターになるかもしれない。つまり、彼が大きく叩くときにはそのような展開が起こっている、ないしは起ころうとしているのだ、ということである。
そこまで含めて、やはりこの和太鼓をどう評価するかである。ドラムとサックスとピアノの三者の演奏の場面がいわゆる(皮肉抜きで)オーソドックスなフリー・インプロヴィゼーションないしフリージャズの枠内に収まっているのを、叩き壊すような勢いで脱皮するのが目標だとして、そのための大味さと表裏の「パワー・ゲーム」展開が狙いだったのかどうかということである。
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* アーカイブを観られない人のために付言しておくと、「直径1.5mの大和太鼓」がステージに載っていて、それを筋骨隆々たる男性が太いバチで叩くという状況である。