「独立の父」

投稿者: | 2018年10月9日

香川県「独立の父」と称すべき人であるのにあまりにも知名度が低く、相応に評価も低いように感じられる人物についての討議考察を通じて、ひいては県政市政の今後を考えようという動きがあるらしく、その関連の講演とシンポジウムを聞きに行った。

中野武営 – Wikipedia

四国に四県が存在するという状況はあまりにも自然であり、疑う余地もないために、むしろ「独立」という契機があったことを想起することすらないのではないか、という発言もあった。今回の会合の一つのテーマとして、基礎自治体が広域行政化する中で「県」という区分の持つ意味を再考するということがあった。都市の郊外化、交通インフラの発達、情報ネットワークの充実といった要因等、基礎自治体がより広域に、よりボーダーレスに、と変化していく趨勢にある中で、ある種の自明の存在として考えにも上らないことがある「県」とは何なのか。

昨今、基礎自治体の行政区分とはまた異なるレベルで住民のコミュニティ感やアイデンティティ、生活圏の問題をとらえようとする動きがあるが、確かにその時に「県」という単位は意外と忘れられている。それなのに、いわゆる通俗的な、テレビのバラエティ番組などでの話題として「県民性」といったことが言われたり、また、上記の香川県の「独立」の一つの情緒的な根拠が「人や文化が合わない」ということであったなど、「県」という単位における何らかの文化、気風といったものがあるように言われることもある。四国四県の場合は、この区分は歴史的にも古く、区分が逆にそこに住む人々の気風を形作ってきた面もあるだろうと推察される。

ボーダーレスに、広域に、という世相に対して、それにあらがう地域主義的な思想の存在がある、という構図自体は、様々なレベルで見られるものだろうが、時に県と市・基礎自治体の関係においてもそのようなことが再び考えられる。上記のように行政区分の広域化はおのずと進むが、そのような行政区分自体に対する愛着やアイデンティティはすでに形成することが難しいのではないか。それよりもむしろ、「県」という単位での歴史的なものまで踏まえた文化や気風といったものについて考え直してもよいのではないか。そのような問いかけがあったように思う。

また、この“ぶえいさん”という人物の不思議な人となりに妙にひかれるというか、不思議に思うところがあった。

政治にもかかわったが、理想が高く、権威や力によらず、権謀術数に溺れることもなかったという。しかし、そのかかわった仕事の量と大きさには驚かされる。ただ実直で清心であるだけでは、このようなことどもはなしえないのではないか。たとえば中央との交渉にしてもそうである。具体的に何に秀でていた人だったのか。あるいはプロジェクトにおけるどのような役割を担う人だったのか。そういったことを、また機会があったら聞いてみたいと思った。

2018/10/12 追記
「中野武営、没後100年 「香川独立の父」功績知る 顕彰会発足記念シンポ」SHIKOKU NEWS(四国新聞社)
http://www.shikoku-np.co.jp/kagawa_news/locality/20181009000164

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