気が向いたら読書メモもつけていく。厳選して読んでいるわけではないので、人に薦めるためというわけでもない。なぜこの本かということについては、さほど確たる根拠はない。
『弁証法はどういう科学か』三浦つとむ、講談社現代新書、1968
https://gendai.ismedia.jp/list/books/gendai-shinsho/9784061155596
元は1955年に出版されて好評だったものを1968年に新書に収め、以来現在まで重刷し続けている。手元にあるのは2019年8月22日第69刷。
弁証法は一言でいえば「対立物の統一に関する学問」であり、「物ごとの本質そのものにおける矛盾の研究」である。 [p.25]
現在の弁証法の教科書は、物ごとがつながっており、依存し合い、制約し合っていることを主張するにとどめ、あるいは対立物が統一されているということを力説するだけで、そのつながりの構造へ、媒介的な統一と直接的な統一との統一された構造へ、相互浸透の構造へと具体的に説明をすすめていくものがありません。 [p.104]
対立が基本的な構造である。対立物は相互浸透し、相互移行し、否定の否定へと発展する。これが弁証法であるとする。これについては論者ごとに異なる立ち位置があり、たとえば「レーニンやスターリンは弁証法について論じていても相互浸透をとりあげていないし、毛沢東は相互浸透を同一性に解消させてしまっている」[pp.104-105] といった指摘がある。このような「論理構造」は「自然・社会・精神をつらぬく一般的な法則であ」るとする。[p.236]
否定性を媒介とした発展の構造を様々な事例に当てはめていく。そのための例による説明と道具立ての解説が本書の主要な部分である。たとえばこの否定性との対立という一面を見ても、それは単に対立構造が存在するということにとどまらない。対立する二者は絶えず相互に浸透し合う。「自分は自分、他人は他人という見かたから、さらにすすんで、自分は相手にとっての他人であるから、自分は同時に他人でもあるという直接のつながりにおいて見ること」[pp.94-95] 、これが対立物の相互浸透の例であり、ここで「他人」が媒介であると同時に直接性でもあるという点が強調される。あまりにも言語的な思考ではないかとも思えるが、ともかくこの否定性が媒介であると同時に直接性を持つという観点が基礎である。この二者という最小単位から否定の否定という運動が始まる。その際、自己/他者という対立を常に崩すこと、つまり前述のように他者もまた自己であるという直観によって相互に対立物が浸透し合う状態を認識することが、弁証法の起点となる。そして引用部にあるように、レーニンやスターリンも毛沢東もこの点を適切にとらえていないというのが著者の主張である。対立と闘争こそが本質である、となる。
社会関係にはいるとか生産関係を結ぶとかいうと、孤立していた人間が手をつなぐことや、労働者が資本家と雇傭関係を結んで生活資料の生産をはじめることのように考えて、いつでもつながったり切れたりできる関係と思いこみやすいのですが、それだけではありません。浸透という形態での直接的なつながり、切りはなすことのできない関係が、人間の側にも生産物の側にも含まれていることを見のがしてはなりません。[p.178]
このような切りはなせない関係を支えるのが対象化された労働の交通である。言いかえれば、労働するがゆえに社会関係を結ぶことができる。肉体的な労働と精神的な労働の分業は社会の発展に伴って生じたとする。精神的な労働は物質的な生活資料の生産手段を持たないため、支配階級のイデオロギーの拡散・強化に加担させられやすい。
ヘーゲルは「運動は存在する矛盾そのものである」と述べ、マルクス学派はその考えを受け継いだ。「弁証法が一般的な運動=発展法則に関する科学である以上、矛盾の研究が重要視されるのは当然です。」[pp.274-275] 「『本来の意味では、弁証法とは、物の本質そのものにおける矛盾の研究である。』(レーニン『哲学ノート』)」[p.275]
矛盾の本質は、ある事物が対立を「せおっている」という関係です。対立物が存在しているというだけで、それが「せおっている」という関係になっていないなら、それは矛盾ではありません。対立物の統一ということが矛盾の構造です。[p.276]
先刻より述べているような、対立という基本構造と、その両者の浸透し合う関係、それが矛盾の本質である。以上のようなことを起点に様々な反論や批判という形を通じて他の思想・哲学などへ学び進めることが可能だろう。