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『新装版 苦海浄土』石牟礼道子、講談社文庫、2004
未読だったのをようやく読んだが、巻末の解説(渡辺京二)まで含めて納得した。てっきりルポルタージュ文学なのだろうと思い込んでいたが(もちろんそういうものとしても優れているのだが)、ある種「私小説」であるとの指摘。こういうのは実際に読んでみないとわからない。前評判が高いほど目がくらむこともある。
「このような世界、いわば近代以前の自然と意識が統一された世界は、石牟礼氏が作家として外からのぞきこんだ世界ではなく、彼女自身生れた時から属している世界、いいかえれば彼女の存在そのものであった。釜鶴松が彼女の中に移り住むことができたのは、彼女が彼とこういう存在感と官能とを共有していたからである。」(渡辺京二「解説 石牟礼道子の世界」講談社文庫版p.375)
解説の執筆者については『逝きし日の面影』が学生時代に話題になって、賛否ありつついろいろ言われていたのを思い出すが、そちらも未読である。
解説ばかり面白がっているわけではないが、解説者は『苦海浄土』を評するにあたって同筆者の『愛情論』を持ち出し、こちらにあった「ナルシシズム」が『苦海浄土』においては患者とその家族たちに「同族」を発見したことによって自己表現へと昇華していると述べる。ここら辺の論理は面白いと思う。しかし「近代以前」の心性と「ナルシシズム」とはどういう関係において考察すればよいのか。
「声」という。断りなく他なる声部が前景化し、あたかもそれが筆者の身体を乗っ取ったかのように朗々と語りだすのが文体的な特徴だが、その背景にあるのが上述のような心性であり、「同族」を介した自己表現であり、「私小説」であるという理屈である。厳密な聞き書きだけではない、とルポルタージュとしては批判的に評される可能性もはらんでいるが、そもそもそういうことを意図したものではないということである。
世評高ければ高いほどそれに目をくらまされてしまうが、予断なくゆっくり読み進めるというぜいたくは手放したくないものである。