Banksia Trio – MASKS
菊地雅章については以前から興味がある。2015年逝去とのことだから、つい最近までご存命だった。
[参考] 菊地雅章=音楽にまみれたピアニストの美意識・生き様を、坪口昌恭が思い出と共に綴る | Mikiki
[参考] R.I.P. 菊地雅章 – JazzTokyo
ジャズピアノを習ったり、音楽書を読んだり、いろいろ模索しているが、「ところで一体自分は何がしたいんだ」ということをよく思う。具体的に “これ” がしたいということは案外ないが、”こういう演奏” がしてみたい、というイメージはいろいろある。その際の自分のポジションは、イメージ上では、やはりプレイヤーなのである。
なんでジャズをやるのか、ということもたまに考えるが、それはたぶんプレイヤーとコンポーザーの間の垣根が低いから、ということになると思う。フリー・インプロヴィゼーションでもなく、コンポジションでもなく、演奏を通じてプレイヤーが生み出す音楽に興味がある。だから上手くなりたいと思う。
しかし、そのためにはやはり “共演” する必要がある。私のような友達のいない地方人には難関である。そこで、どうにか他の音楽家につながるための “接点” を作れないか、ということで作曲・記譜ということを考えている。楽理もがんばる。
これは他の手段を取っている場合も同様で、作品はその社会につながるための媒介だとも考えている。それ自体閉じたものではない。作品に他者が描かれているか、という問題とは別のところで、作品はその社会につながるための口実であり手がかりである。まだやってみたいことがいろいろある。
自己イメージはどんどん更新していきたいものだが、そのための端緒にすらつけずにいるのはもどかしい。いまは地道に練習する時期であると考えて、地味にがんばろう。
で、冒頭の Banksia Trio である。何様目線だという話だがあえていうと、こういう作品がしっかり評価される世の中であれば良いなと思う。