日記 2022/08/05

投稿者: | 2022年8月6日

散髪。昼食ラーメン。帰宅後、倦怠感から少し寝る。起きて風呂。夕飯。

ジャズクラブ配信。高橋知己 Special Quartet “Remembering Elvin Jones”:高橋知己(Ts)、板橋文夫(P)、安東昇(B)、江藤良人(Ds)。板橋のピアノの凄み。ジャズとは、とまた考えてしまう。ひとつ、ジャズのステレオタイプなイメージとして、豪放さ、マスキュリンな力強さ、といってものがある(あった)と思う。これはマスキュリンというジェンダー的に偏向のある表現をするといけないかもしれないが、いわゆる学理に回収されない別のナラティブの原理として実際にあるといえる。例えばジャズにミスタッチはない、というようなことがいわれる。つまり学理からしたら「誤った」音を音楽に回収してその一部として鳴ってもかまわないという、そういう原理がある。だから学理だけのナラティブは片手落ちなのだと思う。わりとオーセンティックなジャズカルテットだから見えることもある。音楽として何がキープされればよいとするか。例えば今回、江藤のドラムはキックとライド、ハイハットでわりと堅実に拍節をキープしながら手数で抑揚をつけていく。ライドのパターンで4/4のスウィングが三連符と行き来するマルチリズム。そのリズムに対して板橋のピアノは破格であり、握りこぶしで叩きつけるようにクラスターを弾くなど、どれがインサイドでどれがアウトサイドかということを考える暇もない。そして、それが別段「外れた」「誤った」音であるということがないのがジャズであるのだなと、相変わらず自明なことに思い至って得心した。

Paul & Linda McCartney “Ram”

市川浩『〈中間者〉の哲学』

体調が悪い。

ジャズのナラティブという誤解しか生まない表現をしたが、その連想からナラティブ・アプローチについての応用も可能か。

要するに、ドミナントな語りの原理がそのドミナント性故に体系化して、体系に組み込まれない要素を誤謬として排斥するということに対する、別種の語りの原理があるだろうということで、それはドミナント性がないということではないのだが(ジャズで「ドミナント」という表現をするとドミナントモーションの話とこんがらがるので誤解しか生まない)、と連想しかかった。

それをもって「それ故にジャズである」とするのは誤った本質主義では、ということではある。

何かを断言して安心しようとする自身の性向をじっと観察すること。

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