身内の話は書かない。
某研究会。
専門家には勝てねえと思うと同時に、勝敗をいちいち決していてはコミュニティが成立しないので各自専門化するのであるという自明の理もわかる。他人の土俵に土足で上がることをせずに気ままに生きていきたいと思うなら、学界への参加など諦めることだ。
オーソライズされたいというのは別におかしな感情ではないだろうけれども、そのためにはルールに従い、レビューを受けて通過しなければならない。さらに言えば学部から院、博士号授与という手続きを踏み、専門家としての基礎を保持しているというシグナルを発すること。めんどくさい。
手続き自体に関心がある官僚みたいな人間になりたいわけではなく、手続きの有効性をある程度認めた上でそれに従うことを選択するわけだが、それは結局本質ではないでしょうといわれればそうだろうと思う。実践せずに形式の話にかまけているようではろくなものでない。
学界の専門家、信頼しうる専門家が自身の専門領域について述べるときの力強さには素朴に憧憬がある。あれが本質よ、と思う。
どうせおいらはアカデミシャンにはなれなかったよ、とひねくれて見せても仕方ないので、できる範囲でこれから自己研鑽していくほかない。スタートが違うのだから現時点で専門性に欠けているのは当然である。これからがんばれ。
今日はインプット整理が多くなってやるべきことができなかった。
愚痴はともかくどんどん作ろう、実践しよう、ということだと思う。理論武装は実践と並走してこそとも思う。
ふと思い出したこと。理論が哲学で実践が政治であり、両者を媒介するのがマルクス主義哲学である、みたいな文言をどこかで読んだ。この辺掘り下げたい。
ドック入りのメイン機PC、明日引き取りに行く予定。出費は痛いが、もうしばらく使いたいのでやむを得ない。
しかし実践のツールがパソコンに限られる必要はまったくない。もっとフィジカルな直感に訴えかけるような取り組みもできたらと思う。