日記 2022/07/15

投稿者: | 2022年7月16日

だるい。蒸し暑い。

『ユリシーズ』100年記念の連続講演。ナラトロジーの観点からも非常に先鋭的なことをしているというのがわかってくる。また、今回は「音楽」という切り口。フーガ形式を参照して反復的・照応的な言語の展開がある。それは記憶と関わり、空間と関わる。あるいは音楽とナショナリズムの関係。

通信課程。自然科学全般の導入講義と微積の入門講義の期末試験をウェブ受検。微積、演習のときは調子がよかった気がしたが、やはりまだまだ地力が足りない。問題集を買うつもり。

締切までの日数から逆算すると結構なスピードでこなさなければならない。

こなす、という考え方・姿勢は我ながら好きではない。

二学期の開講講義の冊子を見ていて、通信課程の講義のみで十分に特定の分野が賄えるということはないとわかるので(学部は教養学部である)、自学自習の体制を整えていくことが必要。

卒業論文をしっかり書いて、できれば院進したい。院は、状況にもよるが、通信課程でなくてもよいと思う。状況次第である。

私の取っている選択肢は、非常に限られたリソースと限定的な地理的条件、年齢などを加味した、かなり特殊なものである。したがって、これが正解だなどとは間違っても言えない。とても特殊な生き方をしているという自覚はあるので、下手に真似するとしくじるぞ、とそればかり憂慮している。

自然科学全般の導入講義で、学問全般を網羅的にマッピングした概念図があった。通信課程の学部では特定の分野に専門化するというよりは広く分野横断的な視野を持つように、というのが基本的な姿勢と思う。軸としては、歴史や政治に関心を持つ市井の生活者としての教養人。あるいは科学全般に広く関心を持つ教養人。情報通信技術。など。

過去の修論のタイトルを見ていると、わりと情報通信系のタイトルが見られる。こういう隠れパスが隠然と共有されているということか。

YTでたまたま斉藤和義の十数年前の特集テレビ番組を見た。

『小林秀雄初期文芸論集』岩波文庫。古本買い。

印象批評にすぎないとか、ポエムだとか、そういうふうに罵られるのが非常に嫌だった。最近はあえてポエムを書いたりもするが、若い頃にはそういう侮辱がいちいち堪えたものだ。

それでいかにすれば印象批評と罵られないかということを考え出す。これは罠である。

大体「正当化」された文学などというものこそ怪しく危ないものではないのか、と、そのように思う。なにか非常にあやふやなことをしているという覚悟がある。そこで「根拠」をことさらに求めるべきなのかと逡巡する。綿密な事実の検証や資料の考証に力があることはわかるし、そこから生まれる作品の力もわかる。しかし、というこの煮え切らない感じである。

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