よく「血肉化」という。知識は血肉化してようやくわかるのだ、などという。読書は知識が血肉化しないから学習効果が低い、などともいうだろう。言いたいことは分からなくもないが、こういう曖昧な言葉に頼ってはいけない。
言語能力が発達している人が特定の分野の語彙や言葉づかいをさっと取り込んで使いこなして見せることがある。一見、その人は「わかっている」ように見える。
特定の分野をアイデンティファイするような語彙や文法についてそれを使いこなせるということが「わかる」ことなのだとしたら、上記の人は「わかっている」ことになる。SNSではこういう言葉づかいのレベルでの適応や模倣がうまい人がいて、そういう人は万能包丁でなんにでも鋭く切り込む天才的な知性であるように見えることがある。しかしそれは「わかる」ということなのだろうか。
特定の人をけなしているわけではなく、むしろ自省の念を込めている。
そういう「SNS的天才」は、語彙や文法を使いこなせればあとは常識的・日常的な生活感覚で事足りるように思える類の学問を軽視するだろう。社会学などはとりわけそうではないか。そしてTwitterなどはわりと手軽に「SNS的天才」としての自身を演出できる場でもある。くだらない話である。
もちろん、特定の分野をアイデンティファイする語彙や文法を使いこなせるということは学習の基礎段階のことであり、「わかる」ということの一部を構成するだろう。しかしそれだけなのか。「血肉化」という言葉自体は曖昧なので使うのがためらわれるのだが、言語とは別の知識の在り方があり、それは言語的アプローチだけでとらえきることが難しい、という世間知としての知識観が「血肉化」という言葉に込められている。それはむしろ規範的な言葉であり、知識は「血肉化」するべきだ、しなければならない、というニュアンスがある。つまり、言語的知識は不十分なものだというニュアンスである。
「血肉化」という言葉を単純に身体知と等価とするべきではないと思う。身体知のことであれば話は多少わかりやすいのだが、もう少し違う話をしているように思う。
つまり「わかる」とはいったい何なのか、ということである。
言語というのは認識の直接性ということでいえばかなり後のものだろう。つまり、認識の一次性は言語的ではないのではないか。では何かというのは、いろいろと試論があるだろう。抽象された構造かもしれないし、ある全体性を帯びた直観かもしれない。
つまり、極端に言えば「わかった」と思ったことが言語化できないこともあるだろう、ということである。言語は後続的に、ある種の遅延を伴って訪れる。あるいは訪れるかどうかは定かでない。
そうだとすれば、上述の「SNS的天才」はいったい何を相手にしているのだろうか。
昔エンジニアをしていた頃、当時のPMに「わかるというのはそういうことではないよ」と言われてはっとしたことがある。あの頃は、確かにあまり「わかって」いなかったのかもしれない。個人的には、その後ほどなく自分の土台がひっくり返るような体験をして、改心したと思っている。あの頃よりは多少「わかる」ようになったのではないか。