大学時代の哲学の講義で、教員の教授が何かぶつぶつと自分と対話しながらひたすら板書を書きつけていくスタイルのものがあって、いろいろなやり方があるものだなと思いながら懸命に板書をノートに書き写した。
あの感覚は最近わかるようになって、エクリチュールとパロールという半ばターム化した単語でいうのは適切でないかもしれないが、とにかく書き言葉で考えた方が思考が整い、納得がいくアウトプットが出せるということは実際にある。しゃべり言葉なんてものはいい加減なもので、思ってもいないことを言うし、考えてもいないことを言ってしまうし、思考よりも反射神経と思い込みが勝る。それを推敲することも訂正することもできない。
しゃべるということにはとっくに幻滅してしまった。書く方が安心できるし、納得できる。そして当然だが、書いている過程、納得するまで練り上げる過程自体は人に見せるものではない。
このような発話からの退隠、書記への愛着、これは逃避なのだろうか。しゃべることに幻滅するとはどういうことだろうか。
それは社会性自体の儘ならなさからの撤退ではないだろうか。
それも含めて、もういいんじゃないかと思うようにもなった。適性のないことに執着するべきではない、社会性の儘ならなさからはさっさと逃避すればよいのではないか。そう思う。
しかし、本当にそうだろうか。つまり、対話と発話は混同するべきではないのではないか。あるいは書記を知らない幼児とは何者なのだろうか、というような話にもなる。発話が本質的に社会的なのだとしたら独語とは何なのか、それは症状なのか。
この場合の発話と音楽は異なるか。アンサンブルと独奏は異なるのかどうか。どう異なるのか。
こんな疑問形をつらつらと連ねていくような思考は当然しゃべり言葉では不可能であるか、あるいは独語か、対話技術を身につけたコーチなんかとであればできるのかもしれないが、だいたい私の思考はこういうふうに入り組んでいるのでしゃべっても真意が伝えられないというもどかしさばかりを感じる。
さらに放言するとSNSの面白さはこのしゃべり性と書き言葉性の折衷具合にあると感じている。しゃべりはうまくないし、整った文章は書けない、という人がSNSでなら滔々と連投できるということは実際あるだろう。
もちろんしゃべるための技術があり、鍛練があるのだろうが、もうそういう無理をする必要はないのではないか。書き言葉できっちりアウトプットしていけばよいのではないか。あるいはそういう内向的な社会性もあってよいのではないか。
しかし、音楽はどうだろうか。音楽とは何なのだろうか。わからないことばかりである。