読書メモ。
『ハバナ零年』カルラ・スアレス、久野量一 訳、共和国、2012/2016→2019
https://hanmoto.com/bd/isbn/9784907986537
語り手の独白体である。
あなたに聞いておきたいの。「きみ」って呼んだら気分を害するかしら? というのは、とても個人的なことを話しているから、「あなた」って言うと距離が生まれてしまうの。だから「きみ」って呼びたいの。いい? 続けるわ。[p.31]
唐突に、あたかも読者自身を指示するかのように二人称が挿入され、親密な距離感で独白を聴いているような印象を得る。小説の最後で、いったいどういう状況なのかがある程度明かされるにせよ、読中はこの二人称のサスペンスが心地よい緊張感を保たせる。
また、上掲の引用文のように、折々で「わたし」の言葉が女性言葉で訳されている。翻訳小説でこういう訳を見かけるたびに、原文はどうなっているのだろうと疑問と好奇心が湧く。私ならどうするかなと考えながら読む。しかし「ジュリア」だからまあ女性なんだろう。それはともかく、性は本作の重要な要素であり、全体のトーンに大きく影響しているので、男性/女性はきっちり訳し分けたほうがよいのかもしれない。
独白と事件(物語)の間の距離は、語りの状況から読み取るほかないのだが、基本的に語り手はあたかも眼前で起こっていることであるかのように語り続ける。しかし、わずかな冗語が少しずつ事態を明らかにしていく。主人公の家族が捨て犬を拾ってきて洗っている場面。
水浴びをさせたあと、チチーは犬を陽光に当て、タオルで拭いはじめた。犬は感謝しているのか、体をぶるぶるさせて、体のあちこちを掻いてうずくまった。わたしはかわいそうに思ったが可笑しくもあり、哀れなお前はその他一匹(エトセトラ)になったんだね、と言うと、信じられないことに犬は頭を持ち上げ、家に着いてはじめて一声吠えた。チチーはわたしを見て微笑み、犬の方を振り返って頭を撫で、お前は「その他一匹(エトセトラ)」だからな、と言った。こうしてわたしが名付け親になり、この名前は確かに犬にぴったりなのだが、もはやその犬も死んでしまったので、名付け親が誰なのかを知る人はいないだろう。少なくともわたしはそう希望する。[pp.64-65]
この物語が決定的に過去に属するものであり、「わたし」はそれについて冷静に、客観的な見地から、知り得る限りを述べているのだ、ということがわかる。語り手は決して万能でも全知の存在でもない。あくまでも「わたし」が知り得たことを、語り得る範囲内で述べている。この限定性、制約が、サスペンス的な嘘や誤解、あるいは未知といった要素を色濃く成立させる。読者は「わたし」の語りを親密に受け止めながら、「わたし」が迷い、だまされ、誤解し、うろたえるのを実に生々しく感知する。それゆえに、それが解けるくだりに強いカタルシスがある。
語り手がすべてを終えた時点から回想していることは後々わかることだが、あたかも今この瞬間には何も知らないでただ現在時に生きているようである。フィクションの醍醐味だが、その構造をしばし忘れさせるだけの文章の妙味がある。あたかも「わたし」が、今この瞬間に生の出来事に翻弄されているかのように、読者は読む。
数学者が語り手であることもあって紹介文などで「数学的要素」が取り入れられているという文句があった。バタフライ・エフェクトについての記述が何かの比喩のようにしばしば現れるが、これは比喩の域を出ないのではないか。むしろ数学的であるとすれば、登場人物を「変数」と呼び、あたかも方程式を解くかのように物語の複雑性の濃淡を表現している部分ではないか。「訳者あとがき」で「3」という数字が重要なテーマであることに言及がある。解くべき方程式の数に対する変数の数の多寡が問題であり、それが解きうるだけの複雑度に収まった瞬間に、一挙に謎が氷解する。この「解ける」という感覚は、もしかすると数学的なのかもしれない。
このような抽象性がある一方で、描かれる「ハバナ零年」の状況は極めてリアルであり、一種のドキュメンタリーのようでもある。登場人物は限られており、また、舞台となる空間も基本的にはハバナに閉じている。そこに外部を描きこむために導入される「バルバラ」という人物のいかがわしさや、通貨を巡って示唆される外国との関係性など、高い抽象性と印象的な具体性が程よく合わさりながら狭い空間にたたみこまれている。語られる出来事は前述のように決定的に過去であるが、そこで引き続き生き続けている「わたし」が過去に係累し、過去を語るよすがはやはりハバナである。